INTERVIEW

CAF Note #2(番外編)大岩雄典

「CAF NOTE #2 大岩雄典」の2万字におよぶインタビュー全文をご紹介いたします。
(本編はこちら)

--まず、今回の展覧会の構想やきっかけからお話しいただければと思います。

大岩:この展示ではさまざまな構造が重なっているので、複数の水準に整理してお話できればと思います。まずは空間の条件に由来したコンセプト、次に美術史的なモチーフとの関係、そして個別の作品単位、の順でお話します。

CAF賞2017で審査員を務めていらした、SCAI THE BATHHOUSEの白石正美さんが声をかけてくださったのが最初です。駒込倉庫の印象的なところは、二階建てというところですよね。奥行きのある部屋が上下に重なっていて、バルコニーや天窓まである。こうした建物の条件から考えました。
2015年にトーキョーワンダーサイト渋谷で開催した個展「Pleasure」も二部屋でした。そのときは一階層で、手前に大きな部屋、奥に小さな部屋。手前の部屋を通らないと奥の部屋に行けなくて、戻ってくるときも手前の部屋を必ず通らなければいけない。そうした構造から、〈二回同じものを見なければいけないということ〉を制作の条件と考えました。奥の部屋の壁に戯曲が掲示してあり、二つの部屋にあるオブジェクトが各々語り手となって話すような内容でした。一旦奥の部屋で戯曲を読むと、手前の部屋のオブジェクトを観るときにもその語りが読み込まれるように、〈知ること〉によって鑑賞の条件が更新されていくという試みでした。
それ以降も、展示の鑑賞には、いくばくかの時間が伴うこと、一挙に観ることはできないことを、制作の主題のひとつにしてきました。とくにインスタレーションで、その内部を歩いたり個々の対象を見たり──観るものとして見出したり──する能動が、時空間の中でいかに起こり、さらなる能動を誘発して、鑑賞自体を組み上げていくか、という問いです。

「スローアクター」でもその問いを引き継いでいます。二階一階どちらも使いたいというプランを出して、両階をまたぐ構造が実現しました。一階にまず入って、それから二階に上がる、その後一階に戻る──「Pleasure」のような構造が垂直方向に展開でき、また印象的なバルコニーから、重力・落下などのモチーフが読み込まれました。
〈上下階を時間をかけて昇降すること自体を見る〉という経験を、どうしたらできるのか。ブライアン・オドハティが言及するように、いわゆるホワイトキューブというデザインが採用しているモデルでは、鑑賞とはただ視界に入るものを受け取る眼球へと還元された受動的なありかたをしています。しかしものを観ることには、自身の視界を興味関心によって更新し、満たそうとする能動的な判断があるはずです。それなしには、鑑賞などできないはず。絵ならば細部へ近づいたり、離れて場所を選んだり、低い位置を観ようとしゃがんだり、そうした細かい判断が発生しています。これは、空間的なステータスだけでなく、時間芸術についても言えますね。僕もよく作るような映像作品は、美術展示会場だとたいがいループされている。映画館で時間を合わせて観る映画と違って、基本的にその頭に立ち会えないんですよね。たいていは途中からで、クレジットで明確に終わりがある場合もあれば、終わりがわかりづらいような作品も美術館だと多いし、全体時間も明示されていなかったりする。絵や彫刻よりも、さらにその外縁が曖昧な状態で観(つづけ)なければいけないわけです。そのとき鑑賞者は、じゃあここから見始めようとか、ここで見るのを止めようとか、あるいはまだ見続けていようと判断したりする。それは、強く自覚的とは限らず、「なんとなく」「とりあえず」という弱い判断であるほうが多いでしょう。

映像にせよ絵画にせよ、〈それを見ること〉自体に関わるかなり細かい判断が、その鑑賞のなかで起きている。ただ受動的に享受するだけでない、〈どう見ようか〉を更新・編集する動きが、身体レベル、知的レベルで発生しているし、それは作品のもたらす経験にも左右されている。この揺動を増幅させることで、観るということにおいて何が起きるのか、美術展示の中でものを見て・理解して・知る経験をどこまで検討できるのか、をテーマとしてきました。今回でいえば、インスタレーション全体が、昇降というダイナミックな条件を含みこんでいます。そのこと自体を構造のなかで活発に扱うことで、経験のなかで増幅させました。

観ることの分析の問題は、芸術領域に限らず、あらゆる〈見ること〉に関わると思います。一般的に観ることは〈行為〉と見なされますが、その能動的な行為の中にも能動性のレベルが多様にある。これを見たいとか、これを見るためにうっかりこうしたとか、ここまで近づいてしまったとか、不安定なグラデーションのなかで、見ることの判断がさまざまに起きている。欲望や欲求、慣習にかかわるものです。この領域を浮き彫りにすることは、美術という分野の、ものを展示して人に見せている形式が、もっともコミットできるところでしょう。

ここまでが一番外側のコンセプトです。次に、モチーフとしての昇降を、いかに・なぜ美術史と接続させたのかをお話します。僕の作品のモチーフは、自分の実存にはあまり結び付いていません。自分の人生観や美的なこだわりからモチーフを選択する作家とは異なり、与えられた状況・条件において〈観る〉ことを考えるうえで効果的なモチーフが案出されるようにします。
二階建ての駒込倉庫をもっとも象徴するのは、バルコニーの天窓です。一階まで吹き抜けのテーブルにガラスの天板が乗せられていて、一階から見上げると、ジェームズ・タレルよろしく空が方形にのぞいている。それは、二階が一階の真上にあるという垂直性の主張そのものです。そこから、まずイヴ・クラインをモチーフにしようと考えました。先行作家を参照することはそれ自体で「アートワールド」的な行為でもありますが、それだけでなく、作家のスタイルや思想を、いわばプラグインにように導入して、〈観る〉ことの検討に使える。本展示では、ほかにデイヴィッド・ホックニーやマルセル・デュシャンなども素材になっていますが、それぞれ、絵画における観ること、鑑賞のゲーム的推移の問題を扱った作家と考えています。

イヴ・クラインに《虚無への飛翔》という写真作品があります。自宅の二階窓から外へ跳んだ状態を撮り、自主発刊した新聞に掲載して発表したものですが、あくまで合成写真です。本当は地上にターポリンを広げた友人たちがいて、安全にクラインを受け止めていた。彼らが写っていた部分を切って、何事もない様子と差し替えて、いかにもクラインがひとりで跳んだような〈ミラクル〉に見せていた。クラインは、虚無とか空虚とかの概念を扱うとき、一見とても神秘的な言及を残しています。薔薇十字会にも傾倒していました。ただ、たとえば藝大でヌーヴォー・レアリスムの研究をなさっている神地伸充さんの研究や、活躍当時の美術手帖の記録を追っていくと、彼の扱っていた〈空虚〉には、ただ即自的ではない別のニュアンスがあるように思えます。最近中尾拓哉さんらの仕事でデュシャンが脱神秘化されたように、クラインやバス・ヤン・アデルのようなマイナーな作家も少しずつ脱神秘化して、モデルとして使えるものにしていくというのが、美術史上の固有名をもちいるうえの態度でした。

有名な話ですが、クラインは柔道家でした。日本の講道館で四段を得ています。美術家としての本格的なキャリアはむしろ人生の後半で、20代後半までは柔道のチューターをして、『柔道の基礎』という題の教本テクストも出版していた。柔道と「落下」で思い出すのはやはり受身です。『柔道の基礎』英語版を見ると、受身は「breakfall」と訳されています。落ちることをキャンセルするようなものです。

《虚無への飛翔》にせよ柔道の受け身にせよ、クラインにおいて落下とそのキャンセルのようなものは、おそらく重要なモチーフに数えられます。俗に「青の画家」と知られるクラインは、独自の顔料で描かれた有名なモノクローム絵画のシリーズにせよ、友人アルマンが報告した空の青色へのこだわりにせよ、たしかに即物的な青を重視していました。しかし、この即物的な青と、落下や虚無といったモチーフとを安直に結びつけると、それらもまた即自的な空虚、即自的な落下として、あわや神秘化しかねません。ただ、クラインの記述を確認すると、もう少し具体的な様相が見えてくる気がします。クラインにとっての空虚とは、何かをキャンセルした結果としてのものではないかと思います。元々あった痕跡を取り去って打ち消すことがクラインにとっての虚無、つまり差分としての虚無なのではないか。まさに力を逃がす受身のように。

『柔道の基礎』は、基本的には柔道では型が大事であると主張して、型の一覧をひたすら紹介する書籍ですが、序文のほうに、ひとつ変な記述があります。型では、「取り」と「受け」がいて、お互いに投げ、投げられるものですが、クラインは、そのときに忖度をするなといった旨を書いているんです。拙訳ですが、「受けは決して、投げを美しく見せようと忖度して飛ばされるべきではないし、虚無への飛翔をすべきでもない。/取りは、受けをたしかに投げようとするべきであり、受けはバランスを崩されないかぎり投げられないように努めるべきである」……おたがい本気で取り組んで、それでも最後には投げられるというのが全うな訓練になる。だからきれいに投げられようとして投げられるというのは本末転倒だ、と。それをクラインは「虚無への飛翔」と、この本が刊行された1954年の時点で書いている。件の合成写真が発表される1960年より前です。

本来の力のやりとりではなく、そこで力が起こったかのように見せかけてしまうこと自体を「虚無への飛翔(Leap into the void)」と呼んでいる。そこから、クラインのいう「虚無」とは、何かの痕跡を消したり、あるべき姿をずらしたりすることなのではないか、と考えました。写真の合成トリックについても合点がいきます。時期によって肯定的か否定的かの態度は変わりますが、いずれにせよ「何もない」という単純な無とは異なるものだったと思います。有名な「空虚」展(1958)に関しても、ものがあった痕跡のほうを重要視していたようだ、と中原佑介がテクストを書いています。クラインはアトリエにあった絵がなくなったときの様子に感銘を受けていて、それが「空虚」展の演出につながるのではないか、と。「その白く塗られた内壁はなにものかの不在の強調だった」。あるいは純金を売買するようなパフォーマンスでも、領収書を焼いたり、金粒を川に投げ捨てたりする。契約の証拠を消し去っているんですよね。クラインは、これこそ虚無だ、と神秘的に示す作家ではなくて、もっとコンセプチュアルで、時空間の中で虚無をどうやって生み出すかを考えていた作家だと思います。

「スローアクター」に戻れば、二階建てという展示空間をもちいて、言葉遊びですが、クラインのように〈落とし前〉を〈どうつけるか〉というのが今回のテーマです。鑑賞者が両階を昇降するなかでこの〈落下〉を反芻して、どう受け取っていくか、受け取ろうとするようになるかを、クラインをひとつの参照項、また鑑賞のアイテムとして活用しています。ひとつは一階と二階の対応をマンガのコマのように──もしくはクラインの合成写真のように見せることです。それを活性化させるのは、二階踊り場にある映像作品《EVENTUALLY EVEN》のストーリーです。落下自体を何度も反復するけれど、落ちきることは永遠にない。落語のごときオチがないように、クリア失敗したゲームのように語られていることで、ではどうすればきちんと落下できるのか、落下したことになるのか──虚無の一歩手前で止まるのか、という問いが発生する。ここまでお話したようなコンセプトとモチーフとをつなげる構造です。
イヴ・クライン研究をそのまま提示するというよりは、クラインの考えていた時空間、時間的な虚無の発生をいかにインスタレーションの形式で再考し、実践化できるか。クラインを参照して、〈ものを展示する〉という独特な形式を、時空間の問題として緻密に取り上げるというのが、彼をモチーフとして採用した理由です。1960,70年代には、そうした形で参照できそうな「前-インスタレーション」的な作家が多くいると思います。

よりインスタレーションのポテンシャルを出すために、〈落下〉を蝶番に、他の作家や作品も参照しました。展示会場に多くある水やプールはホックニーの《大きな水しぶき》に由来していたり、水の落下といえばデュシャン《遺作》の落水=滝、さらに滝を経由して、シャーロック・ホームズなど。デュシャンとホームズとの関係は、「スローアクター」直前に発表した藝大の修了作品《トレイラー》で扱っています。あるいは、オランダのバス・ヤン・アデルという映像作家が、屋根や木から落ちるパフォーマンスの記録映像を作っているとか、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は、落下で始まり落水で終わる、というかまた冒頭へループする小説です。落下というごく一般的な運動、重力に伴う根源的な運動をつうじて、それが文芸も含めた広い芸術史の中でどのように扱われているのか縒り合わせていく。クラインが二枚の写真をくっつけたように、複数の実を結びあわせて、この展示で扱われる落下というモチーフ自体が少しずつ豊穣になる。合成写真のように空虚な差延が、展示自体のダイナミズムとなりながら、見れば見るほど、理解した内容が増えるほど、落下というものがすり抜けていく。それ自体が落下です。初め、なるほど二階のインスタレーションが一階に落下しているね、と単純に見ていても、クラインやデュシャンの落下ということを映像作品で参照して改めて一度みると、むしろ理解のための摩擦が強くなってくる。

展覧会とは、ものを並べる仕事だと思っています。時空間に並んだものをどうしても鑑賞者が結び付けないといけない。結びつけるという、インスタレーションや展示に要求される意識が、その対象自体をどんどんずらして落下させていく。たぶらかさていく。ここで立って見ているものはどこまで意図されたもので、どこまでモンタージュされたものかについて、鑑賞者は再検討しなければならなくなる。そのとき、落下のあわいに、落下を可能にする落差が見える。鑑賞とは連鎖する踏み外しです。

今回〈落下〉についてそうであるように、構造自体がコンセプトとモチーフを兼ねる「再帰構造」は、毎回目指しています。CAF賞2017に出展した《五階くらいの高さから~》も、猫というものが何回も別の形で語られることで、なんだかわからなくなっていく、猫はいるのかいないのか、猫っていうのは出ていくものなのか入ってくるものか、外にいるのか中にいるのかわからなくなってくる、その二重の動き自体に、やはり作品の語り口それ自体が一致する。

後藤夜半に、「瀧の上に水現れて落ちにけり」という俳句があります。作品なるものの輪郭を僕が考えるときによくモデルに出す例です。瀧の上に水が現れて落ちるって、滝そのままの記述なんですけど、これは同時に、この俳句の構造自体の記述にも読めるんですね。「瀧」がまず出てきて、そこに重ねて、「水」が「現れ」る。中七のストロークを水が「落ちて」いき、そしてこの句も「けり」と落ちる。滝というモチーフが選ばれた俳句形式=フォームと内容、構造すべてが一致しており、僕が「美しい」と判断するのはこうした再帰性です。同じような例だと、作家の谷口暁彦さんが、最近3Dスキャンとプリンタを用いた作品《骰子一擲》を発表しています。サイコロがスキャン対象になっている。サイコロは、振る度に目が変わっていき、それぞれの面が、その一振りをそのたび代表するようなひとつの場合として「出る」ものです。それは、3Dスキャンという技術によく似ていると思います。ある対象の周りから、その一面を色々と撮って、そこを計算で全体像をもう一度再現するようなこと。
滝にせよサイコロにせよ、そのモチーフを用いる表現の形式そのものに一致すること。自分の実存とか、キャリアや生活からモチーフを導くのではなく、〈どのようにものを作るか〉と〈どのようなモチーフを選ぶか〉ということを同じ水準で考え、すり合わせていきます。今回は、モチーフとして落下がまず思いついて、落下には、並べて落差を飛び越すモンタージュに似ているものがあると思い、コンセプト面でも合致しました。

余計なことを言えば、蓮實重彦『映画の神話学』に、「映画と落ちること」というテクストが収録されています。映像表現が、〈落ちる〉という運動の表現にどれだけ苦労や葛藤、工夫があったかということをめぐる文章です。映画の画面は人間の視界のように横長で、撮影技術もパンに特化していたため、縦向きの落下を表現するのはかなりコストがかかる。そのときにできるのは、落ちていく姿をカメラで追うか、落ちる瞬間と着いた瞬間をモンタージュするかの、大きく二択となる。でも役者自身が転落する演技は危険で、落下の表現にはモンタージュが積極的に用いられた。落下とモンタージュが関係するという点で、クライン《虚無への飛翔》も思い出します。

--今回の展覧会冒頭の花瓶を用いた展示にもつながりますね。

大岩:花瓶に関して僕がおこなったことは、あくまで天窓に花瓶を置いて、真下に割れた花瓶を置いているだけなんですよね。僕はあの花瓶を一回も落としていない。安全のためタオルに包んで、床でハンマーで叩き割っただけ。室内の階段や什器に関してもそうです。床があるんだから。でも上下を揃えてあげると、モンタージュのごとく繋げて考えられる。でも落下の本質には、まやかしのようなものが入っているのかもしれませんね。落ちる瞬間と落ちた後しか見ることができない。以下、作品については二つの単位で話せればと思います、一つは二階踊り場の映像作品《EVENTUALLY EVEN》、もう一つは二階の明るいメイン展示室。先に展示室の話から……「スローアクター」は展示内展示の構造をともっていて、二階の展示が一階に落ちている。主にこの二階部分の空間設計に、建築家の奥泉理佐子さんが介入しています。二人でコンセプトを共有しながら、相談も入れつつデザインしました。奥泉さんは僕と同じ代の建築の修士で、建築の内部において見ること自体の条件を問うように空間を設計することに関心をお持ちです。その点で僕とは興味が重なっていた。僕もまた、展示という形式に関して、〈見るとは一体いかなることか〉というテーマがある。今までは映像作品が多く、言語や時間の問題として取り組んできましたが、今回は奥泉さんの協力もあって、空間的に展開できました。

ものの前後を繋げて理解したことになってしまう〈落下〉、短絡して落とす、オチ。落語のオチも洒落で終わってしまうように、本当に関係ないことが一致して、そう見えてしまうということに関心があります。ミステリの解決もオチみたいなもので。そうした〈オチ〉が、見るという運動においてどうやって起きているのか。

奥泉さんの修了制作《leaf through》は、ある川沿いの空間の設計なのですが、その一部に、二種類のタイルを使ったエリアがあります。落差のある橋があり、架かる橋の床には小さなタイル、その下の床には大きなタイルを使っている、橋を歩くとき、小さいタイルは近くで見るからそのぶん大きく見え、たいして大きいタイルは遠いぶん小さく見える。まるで太陽と月のように、同じ大きさで見えてしまう。その奇妙さが、視界や足元のあやうさを誘発して、距離間の再検討を促す。ここには落差や遠近があるという、当たり前の状況が改めて認識の俎上にあがる。見ること自体の条件への問いを設計しています。そのような興味関心を持つ建築家が介入するにあたって、美術作品を見るということ自体の再検討が鑑賞者の方に返ってくる、というコンセプトに総合しました。一個一個の〈落ち〉によって、認識は書き換えられ、彫塑されていく。

たとえば(以下は僕一人によるデスクリプションですが)、一階から二階に階段を昇るという時空間を俎上にあげるため、階段を昇ること・階段を見ることなどを分割・再構成していきました。展示室内には実際に昇れる薄い階段と、見るしかできない青い階段=作品の二種類が並んでいます。薄い方は5cmくらいの高さでスロープのごとくで、ちょっと階段としては浅い感覚がある。たいして、青い階段作品の蹴上は20cm強なので、ちょうどいいはず。でも作品だから昇れない。ためしに、青い階段を横目に観ながら薄い階段を昇ると、自分が一体何を昇っているのかちょっとわからなくなるような、生理的なバグが起きます。観ながら昇るということ、高さが変わるということが、そこで浮き彫りになる。それが建物全体への意識、あるいは自分の位置・姿勢への意識へとフィードバックされる。こうした仕掛けを、作品もしくは展示の什器、その混合という形で、いかにあの空間に充実させていけるかを、奥泉さんと二人で共有しながら作っていたと思います。さらに言えば、二つの階段の正対する方向を延長して交差する点が、キッチンから出てきたところの位置になります。ハンドアウトを取って出てきたらその二つは選択肢のように並んでいる。これがバラバラだったら何も思わない。並べることで関係を強調しています。

「スローアクター」は、絵の高さや距離なども一般的な美術展示とは違うオーダーになっています。入り口の大きな絵に対してうまく退くことができなくなる位置にキッチンがあって、ぐるっと回らないと丁度いい距離で見られない。本来あの距離ならばもっと小さい絵を置くべきところを、あえてそうする。あるいは、階段の上に昇ることでやっとちょうどいい高さになる絵が、しかしその位置からでは遠すぎる。近づくためには、結局階段を降りなければならない。カーテンの高さに関しても、鑑賞者の身体のステータスを反映するようにデザインされています。さらにはアクリルや水などの素材──光の反射を見るとその由来を探したくなる。そのときに何を見て何を探しているのかとか。そういうことがどんどん交錯して、鑑賞自体が当の鑑賞の変数として読み込まれ続けるように作れたかなと思います。そうして連鎖する運動は、企画構成の砂山太一さんが設計に携わり、僕もトークイベントに登壇した《オブジェクト・ディスコ》(2017)を思い出します。

今回の作品がミニマリズムを参照しているのも、対象自体が表象するものよりも光の追い方や什器、もしくはそれを追っている自分の身体とかがどんどん前景化していくことを優位にするためと思います。ドナルド・ジャッドとかトニー・スミスが展開していたミニマリズムの空間性の過剰に増幅したバージョンかもしれない。マイケル・フリードが演劇性と呼んだようなものですが、インスタレーションの中で時空間を持ってそれをどのように見ていくかという、演劇的な鑑賞者の振る舞いについて整理することは、インスタレーションをデザインするうえでの基本的な文法になる。いまではインスタレーションという言葉は芸術分野に限らず用いられますが、たとえばデザインのインスタレーションにおいても何を見せたいからここまで寄らせるとか、そういう基本的なものを見せるときの文法として使える。「スローアクター」はその標準的な文法ではなく、ボキャブラリーのようなものを少しずつずらして、レトリカルなおかしい表現をどんどん詰め込むことで、文法のポテンシャルを実験したようなものです。

--そこでは振り幅を現出させようとしているのですか? それとも既に最適解みたいなものが大岩さんの中にあって、鑑賞者にそこに近づかせたい、気づかせたいという意図があるのでしょうか?

大岩:振れ幅を拡張する方向にあります。僕はいままでは言語表現によく取り組んでいます。2016年の二人展「囚人は通夜にいきたい」では小説を発表したり、また映像でもしばしば字幕を使います。そのとき、その文字列がどうして読まれるのか、文章がどういう効果を持つかを考えており、とくに足がかりになるのが文法的な要素です。言葉を読ませるときの統語・統辞法(syntax)を、どこまでオーバーロードできるのか、負荷をかけられるのか。一般的な文法や日常的な語法から外れていても、人間、意外にそれでも読めてしまって、意味を捉えることができてしまうし、そこで新奇な質が発生する。佐々木敦が『新しい小説のために』で、保坂和志『未明の闘争』のこの一文を取り上げています。「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」。文法としておかしい文です。普通だったら「歩いていたを見た」と言うか、「私は」を抜かすべきです。文法を脱法してしまっているのに、なんとなく言っていることがわかってしまう、通じてしまう。このような脱法行為が、文法というのはどこまで可能か、表現というのがどのような法の元で可能になっているのかという条件を逆に映し出すと思っています。僕はここまで明白に逸脱した文法は使いませんが、話される順序や、撤回などを活用して、インスタレーションのなかで一通り聞かれる・読まれる言葉をデザインする意識があります。

2016年に発表した『時間割』という小説には、三人の主人公がいます。普通の小説だったら名前をたとえば「さくら」「すみれ」「あやめ」さんのように名付けるところを、「わたし」「あなた」「それ」さんにしている。本来代名詞を名前につけることは現実なかなかありえない。「ユウ」さんが海外に行くとI am Yuu=youとか言って変になるように、ドイツには「イッヒ」さんはいないだろうし、フランスに「ジュ」さんもなかなかいないでしょう。このような、文法を内破するような操作をしたとき、読む人はいかに読み続けるのか。「わたし」というのが誰を指しているのか、「あなた」はもはや読者をも呼んでいるのか──そうしたノイズにまみれる負荷が文法から作り出せることを考えていきたいと思っています。後述しますが、「スローアクター」の映像作品でも、物語論を参照しながら同様のアプローチをしています。

空間の話に戻れば……展示室の空間で、見ること、空間を歩く習慣をどこまで脱法できるか、本来その絵を見るべきでない距離で見ること、あるいは離れると見えなくなってしまうほど小さい文字を大きい絵に挿入しておくこと。明度を潰して文字を見えなくすること。身長よりはるかに高い位置まで要素を置くこと。本来起きないような操作を盛り込んでいくことで、鑑賞というものを反射していきたいという試みです。コンセプトを奥泉さんと共有していく中で、建築の機能的デザインと美術制度的なデザインがひとつずつ結びついていったと思っています。

次に映像作品の話を。これは、キャリアの中でずっと今までやってきたことの延長でもあります。2018年の二人展「明るい水槽」で展示した《いつまでも見知らぬ二人》では、展示における映像のループを問題にしました。チャプターの一部が欠落しながらランダムに組み合わせられる映像を見るとき、結局何を見ているのか、何を見るべきなのかが問われる。無限にパターンがあるようなものをどこで見終えてしまうのかという。たとえば、ビンゴのようにひとつひとつ数えていって、40個すべて見たら終わり、というようなゴールは作れるわけですが、映像として繋がって流れる以上、それが連続した物語になるから、本当なら組み合わせの数だけ物語がある。そうしたぶれを多分に含んだ物語について、しかし、ここまで見られたぶんで世界観がわかった「ことにする」という態度が、鑑賞においてどう機能するかに関心があります。クラインが合成写真で跳んだ「ことにした」ように。〈観る〉というフィルタを外したその対象そのものを見ようとするのは、ある種神秘的な試みです。本当に落下を神秘的に検討したかったら、クラインは本当にベランダから身を投げなければいけない。でもクラインはそれを合成写真で十分と思っていて、それは全く神秘的な作家性ではない。『柔道の基礎』で述べていたような、見てくれでしかないこと、あえて飛ばされることで本当に飛んだ「ことにする」ようなものに、クラインは関心を持ったのではないでしょうか。

映像の話に戻ります。展示作品《EVENTUALLY EVEN》の構造としてまず考案したのは、大量に時間的な副詞を入れることです。たとえばドラマで、回想シーンの前に「2年前」とか、時間が経って「2年後」とかある。《EVEN》はそれが異様に多いんですよね。「やがて」とか「三分前」とか「同時に」とか……だんだん、それは全体の構成としてはほとんど意味をなさなくなって、別時間や別世界のことがひたすら並んでいく。でもそれもまた主人公の男性による口述の内外にまつわり、彼の記憶が混乱していくのと並行しています。物語記述において、どの時間から書かれ、読まれるという微妙な問題です。口述する行為自体が、交雑する時間のはざまに逃れさり、彼の昇降の運動自体がこぼれ落ちていく……。そこで参照したのは、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』という、居る時間が過去や未来へ次々飛び移ってしまう主人公の目線をひたすら描いた小説です。書いている本人、喋っている本人が自分の口述をわからなくなっていくような、あるいはそこにおいて読む側とのあいだに大きな落差が開いていくような文章。自分が書いていたり言っていたりするのかが失われていき、読者もそれを信頼できなくなる。そのようなテクストにすることで、一体なにに付き合っているのかが俎上に上がる。

でも彼が忘れていても鑑賞者は覚えている。だから、さっきの音だ、さっきのセリフだ、ともう一回それを見てしまう。響いてる音、画面の構図について、結びつけながら観てしまう。鑑賞者の身体自体が、ある行為とか見たものをブラウザの「キャッシュ」のように覚えていて、それがどんどん鑑賞、展示を見る中で後から働いてくる。もちろん忘れる部分もあって、その欠落も効いてくる。そのとき、語られる物語の手前の、それがいかに語られえているか、という層が不安じみて現れてきます。

展示というのは一挙にフラットに見えるものではなく、そもそも当の展示自体を、鑑賞者自身がどう見れるものなのかを彫刻していくようなものだと思います。見ている中で、その見方自体がどんどん変わっていく。展示を見終えてもその人の見方自体が彫刻されて変えられてしまう。展示をただ見ることが、見ること自体を変えてしまう。それが今回の個展のテーマでもあり、映像のモチーフでもある「遅効性の毒」のようなものです。毒や薬には遅効性と即効性があり、「即効性」は英語で「immediate acting」と言います。たいして「遅効性」は「slow acting」といいます。immediate actingの「即座immediate」という語は、mediaに否定の接頭辞inが付いたものです。「中間物=media」がないとき、毒は即座に効く。しかし、美術という営為は何かの媒体を通すものです。ものがあることが、常に理解に時間を待たせてしまい、その時間のあいだに、理解・見方は、当の対象によって更新される。だから、immediate actingではなく、「slow acting」です。

一階の音声が語っている、知るということ、それが〈あなたのメモリー〉になることとも繋がります。あの音声は、それを見ている鑑賞者が、どこまで何を知っているのかを鏡写しに問いかけるような言い方をしています。二階を一階の記憶なしで見ることはできないし、一階を戻ってきたらもう二階の記憶なしで瓦礫を見ることもできない。そうした関係は、個々の作品間、現象間でさえミクロに発生しています。鑑賞者のもつ見方自体が編集され、遅効していくとき、鑑賞者の経験自体が「媒体=media」になっていく。これを指して、スローアクターという語が考えられるでしょう。

--メディアには媒介を助けるはたらきと同時にかえって不自由にさせる部分もあると思いますが、不自由さを増幅させてみせることでメディア≒アートの存在意義みたいなものを問い直し、突き付けているようにも思えます。今回の展覧会のウェブサイトは上下が反転していて、とても読みづらくなっていますね。テクストを上下逆さに並べることで、結局はそこに並んでいるテクストを通してしか私たちはコンセプトを読み取れないと突きつけるわけですよね。テクストのもつスローアクターとしての要素を増幅させて、あるいは見る者を苛立たせることで、どれだけメディアに依存しているかということも実感させられました。

大岩:広報ウェブサイトは作家の山本悠さんにデザインしていただきました。落下というテーマや、時間の逆行を素材にしながら、読みにくさをあえてデザインして、スマートフォンならば逆さにしたり、やはりここでも、見ることが俎上になった良いデザインだと思います。先程話したスローアクト=遅効するというのは、効くのが遅い、単純に「効きにくい」ことですよね。麻酔を打ってゆっくり一、二時間ぐらいでペースを作っていくとか。絵の見にくさとか、近づきにくさとか、「しにくさ」は、「メディア」なるものの条件です。あいだに入って何かをしやすくするようで、しかし挟まった障害物でもある。美術という実践が、なぜあえて形を持ったものを作るかということに繋がるかと思います。

--ここで同時代性、テクストのTwitterからよりインスタントな画像のinstagramへの移行、みたいなことも問えるわけですね。

大岩:SNSのようなimmediateなものがあるなかで、なぜ美術展示が、広い場所をとって、人を電車で呼びつけて何十分も展示を歩き回らせるのか。その価値や特異性を問うためにも、見ることの時空間を検討していきたいですね。

--下の階の音声作品は、大岩さんの作品としては比較的わかりやすいと思いました。作品自体も自己言及ですし、同時に展覧会のヒントにもなっている。本作を冒頭に持ってきたということは、展示全体を象徴するような、あるいは道案内の役割を担わせているのでしょうか。

大岩:一階の映像は、今までの僕の作品では最も短く、3分程度しかありません。一階、寒いですし。これには、ゲームデザインの話から始めるといいかもしれません。本展の企画構成の砂山太一さんと話しているキーワードに、「ゲーム」があります。必ずしもRPGやアクションなどの商業的なビデオゲームに限らず、たとえば絵画作品の《OUTSIDE IS VIVID》はブラウザ脱出ゲームを参照しています。脱出ゲームは、基本的に見ることとクリックすることしかできない。クリックすると視界が近づき、より凝視して見るという仕組みは、美術展示において、気になったものに近づいて見るといった動きに似ていると思います。件の絵画も脱出ゲームの文化を参照していて、引き出し、ゴミ箱、ソファという、脱出ゲームの典型的な「見るべきところ」が描かれています。逆に何もないところに「There is no strange thing」と書いてあるのは、脱出ゲームの代表格である『CRIMSON ROOM』から引用しています。

一階にまず瓦礫があるという展開も、ゲームデザインを参照しています。ゲームデザイナーのドン・カーソンが「環境的ストーリーテリング(environmental storytelling)」という概念を提唱しています。空間をプレイヤーが航行するだけでストーリーが伝わるというもので、カーソンは例に、爆発の痕や、落下してきたピアノ、壊れた車両などを見るだけで、何が起こった空間なのかをプレイヤーは知ることができる、と述べています。そうしてプレイヤーは、自身とその場所との関係を咀嚼していく。会期中にアーティストの谷口暁彦さんと、ゲーム研究・美学を専門とする松永伸司さんをお呼びしたトークがあります。ゲームの知見や実践をいかにインスタレーションにも構造的に利用していくかは考えたいですね。

もう一つ言うと、ハンドアウトに展示マップが載っていません。代わりにグリッドのなかに作品が並んでいる。『バイオハザード』シリーズや、脱出ゲームのアイテム欄を意識しています。「インベントリ」とよく呼ばれるものですね。マップがある場合、「観るもの」の同定は地図上の位置が最も参照される要件になる。それを避けて、同定するたびに次々にグリッドが埋められていくようなイメージにしました。つまり、個々の作品にたいする知が、アイテムのように蓄積される。「あなたの知っていることが、あなたのメモリー」。観るという行為のプロセス、連鎖を自覚させる。

先日トークにいらしてくださった福尾匠さんが書いた、2017年に僕の参加したグループ展「Surfin’」のレビューでは、一連の鑑賞のなかに融点と氷点があるということを論じています。展示空間を観るなかで、関心や態度が凝固する瞬間もあれば、それが溶解する時間もある。この氷点は、氷がなにかの不純物をコアに析出するように、何かのきっかけに中心化しているはずです。だらだら視界の色や光を享受する「純粋に受動的な」知覚というのはなかなかなくて、そこに、「それをそれとして見ようとする」欲望が入り込み、氷点をつくりだす。ところで、ビデオゲームにおけるオブジェクトはすべて離散的に分かれています。オブジェクトAのうえにオブジェクトBを置くとか、フラグがオンかオフかとか、展開が明確な単位で管理されている。「スローアクター」が融点/氷点のダイアグラムを考えるさいには、その単位として、作品や、あるいは階の移動、死角など、離散的にアイデンティファイしやすい要素をもちいてデザインしていることになります。

ゲームについて長く話しましたが、件の一階のインスタレーションにも関わっています。ゲームプレイヤーが、当のゲームのルールにすぐ馴染んで、自然と能動的にプレイできることをまず準備しているのは、ゲーム冒頭のチュートリアルだと思います。とりあえずチュートリアルに付き合って、話を聞くなり、言うとおりボタンを押すなり、考えたりする。すると、以降のイベントに対応できるようになる。それに似たものが展示の頭にあるだけで、続けて見るときの能動性が準備されるわけです。「チュートリアリティ=中途リアリティ」が、来たるべきリアリティの前にある――とか、洒落でいうとオチますね。ゲームでは、最初にいわゆるチュートリアルがありますが、その後のゲームプレイも、さらに次に来るステージのチュートリアルになっている。それを象徴するものが、繰り返し言えばアイテムとかスキルのようなものです。展示になぞらえれば、映像を見ることや空間を見ることが、また別の鑑賞のチュートリアルになる。そうした連鎖する運動が、見方を彫塑していくこと、見方をアイテムとして手に入れていくようなものです。一階の映像が簡潔なのは、一番初めに、あなたは何を知って何を見ているのか、「あなたの知っていることがあなたのメモリー」という、このテーマそのものを再帰的に宣言するからだと思います。これがチュートリアルだと知ることが、最初のチュートリアルになる。〈あなたはどのメモリーでこれを見ているのか〉という、文字通りセーブデータのようなものですね。

--ゲームに例えて導入の機能としてのチュートリアルの大切さをおっしゃりましたが、ゲームをする「モチベーション」もゲームを続けさせるうえで必要とされますね。この展示を鑑賞者が見るときに、ゲームの製作者としての大岩さんがどのようなモチベーションを設定されているのか、あるいはそれはここでは問うていないのか、という点に興味があります。

大岩:僕のモチーフ選び自体はとてもドライで、それをモチベーションの口実にすることは継続的にはできません。猫の出る映像を、猫好きは勝手に見ればいいというぐらいのことでやっているから。今回のインスタレーションは抽象度がさらに高くなって、球は球でしかないし、キャラクターがいるわけでもない。ほとんど構造が主題であるときに、どのように鑑賞者のモチベーション、欲望を引き出すかについては、「Pleasure」(2015)のコンセプトがやはり参照点です。
「Pleasure」では、ものやもの同士の関わりについて知的にわかる、見つける「うれしさ=pleasure」を主題にしました。英語で「pleasure」というと美学でいう「快」だ、と、その展示のトークイベントで星野太さんに指摘されています。Lustですね、ドイツ語で言う。理解すること・判断することそれ自体の快が連続することで、鑑賞のモチベーションが保たれていく。什器自体はなんでもなくとも、それが落ちているという出来事自体を見つけることの快。さらに加えて、映像に登場するモチーフや、空間に配されている鍵とかレインボースプリング、水、砂糖といった、ごく日常的なモチーフは、誰しも鍵を落としたことがあるとか、砂糖を混ぜたことがあるとか、普遍的に結びついていく。知っていることを確認すると生理的にうれしいはずで、それが、知的・文脈的なモチーフへの理解のフックになるよう考えています。動機というほどの強いものを要求せず、自然に積極的に捉えてしまうような。そのときに調整するのは、照明や角度など、微妙な見えかたです。もはや分節した意味ではとらえきれない質感を、仕上げに作っていく。ゲームの質感というのも、メカニクス的に説明しきるのが難しいものだと思います。でも質感によってこそ、近づいてみようとか、微弱なモチベーションを作り出すことができる。何らかの美的な要素が鑑賞運動のフックになっていて、見るのをやめさせ「ない」という反動的な動機になる。

--今日は「美術」という言葉を大岩さんが制作のうえでどうお考えなのかお伺いしたいなと思って来たのですが、お聞きする前に答えが出てしまいました(笑)

大岩:さっきの俳句の例のように、僕は構造的な美を面白いと思っています。知的な美って一見ハイソな感じがしますが、洒落のような美も含むし、「スローアクター」のモチーフも煩雑なものはありません。逆に僕は、造形的な快楽を元手にものを作るのは苦手です。絵の具のマチエールや、映写真のぶれとか。その点では、今回の展示で建築の奥泉さんの協力を得て、2階の大きい窓をどうするか、日光をどう反射させて使っていくか、素材そのものや塗装の美しさなどを考えられました。質感を扱うことは、それ自体として工芸的に高品質なものにするだけではなく、〈観る〉運動自体を操作するような要素として、今後も考えられると思います。

--展覧会が開けてみて、みなさんの反応はいかがでしょうか?

大岩:SNSの反応では、入り口すぐの、天窓を見上げて花を撮ってアップしている方が多いです。これはいわゆる〈インスタ映え〉の現象だと思っていて、〈なぜあれを撮るのか〉に僕は興味があります。僕自身もinstagramを会期中に始めて、「展示の写真を撮っておく欲望」について考えています。全体の構造を多くの来場者はすぐ掌握するようですが、でも一階の写真や、踊り場の映像作品よりも、花や、水槽のほうが写真に撮られ、SNSにも上げられます。そうした偏りがコンセプトのどの層に当たるのかを考えさせられます。

作家というのは端的に展示や鑑賞の上流にいて、どうしても鑑賞者よりも多くを知っている存在です。演出や仕掛け、理由をよく知っていて、〈真犯人〉のような存在です。このインタビューの前半で長らく話したように、ひとつの展示も複数のレベルでデザインが働いている。鑑賞者がそれをどこまでうがって見るのか、どの層まで深く見るのかは気になっていて、instagramのようなSNSは鑑賞者の発見やその快をよく反映していると思います。あるいはinstagramやTwitterという存在が、そうした偏りを作り出してもいるでしょう。表層の端的な美を写真に収めたい、これこそ展覧会の顔に思えるという欲を満たす水準もあれば、体験の構造を知的に把握したいとか、あるいはどのような恣意性が働いているのか批判的に見たいとか、鑑賞の定位できる水準は複数あります。それが今回の展示では、正直偏ってしまったかもしれません。やはり美の要素が強いか、あるいはその美的な要素の構造がアフォードする物語が安直すぎたか。僕の展示に固有の偏りなのか、あらゆる展示にまつわる偏向なのか。
ともかく、およそ一律した反応を得ています。それはデザインの技術としては成功に値することですよね。商業的なデザインは、鑑賞する人の欲望をどこに定位させるかが正確で、無用なアイロニーを挟ませない。しかし芸術の領域では、多くの水準があるというポテンシャルは必要だと思っています。それが展示中に同時に起こるというより、アーカイブされて、10年後、50年後にも、別のポテンシャルが見つけられるということが必要だと思います。

僕がinstagramに載せる展示写真は、作品写真でもないし、そうしたSNSにあがるような視点とは被らない写真を選んでいます。もはや展示の文脈を離れたようなおしゃれ写真のように。これもある種ゲーム的に、自閉した遊び方、やり込み方を見つけるようなものです。作家が自分の作品についてどうアプローチして広報するべきか──もちろんオーソドックスな告知もするべきですが、それだけでなく、自分が写真を上げて、フォロワーがどう感想するか、そういう印象自体もまた彫塑していかなければならない。サディスティックな考えかもしれません。そうしたレベルまで含めて、人がなぜそれを見るのか、なぜそれを見たいと思うのか、という心理や欲求に関心があります。

--アーティストである以上作為・意図からは逃れられないから、観る人との受け取り方との間でどうしたって自然と関係性が決まってきてしまいますね。

大岩:トークゲストや身内と打ち上げして話したのですが、僕の作品は批評しづらいと思います。構造について自覚的で、かつそれをこのように公表している作家の作品については、批評することのコストが高いのではないか。
鑑賞の素朴な感想から、アイロニーを通過した批評になるという運動もまた、それ自体展示に埋め込んでおきたいと思っています。〈ここまで見る〉ということがどのような欲望に応えることになるのか。批評したくなる、あるいは批評に挫折するということがこの展示にどう内在しているのかを考えておきたいです。批評というのは、ざっくばらんに言えば〈オチ〉をつけるようなもので、それにたいして、展示自体が自覚的に、どこにオチをつけるのか、どう〈あなたは見たことにする〉のか、をパフォームしていく。どこの洒落で落とすか、ということです。僕のサイトに上がっているテクストも、大概洒落で終わっています。

--批評家がつけるオチを先回りするようなことはあるんですか?

大岩:もちろんあります。たとえば「明るい水槽」の作品では、ジェンダーの問題からアプローチしたときに肝要になる要素が用意されていたり、それこそ知的な快がピークに達するようなフレーズを入れておいたり。ゲームで言うとアイテムゲットですね。「わかる人にしかわからない」ということこそ、一階の音声の「言ってる意味わかる?」に対応すると思います。誰も野放しにはできない。

--このあとはどういった展開をお考えでしょうか? たとえば「落下」のテーマは継続されますか?

大岩:ここまで話したように、落下というのは極端に言えば時間の象徴です。鑑賞において〈読み下す・見下す〉時間を考えるときに、落下とか、滝といったモチーフは再登場する可能性があります。いままでネコとネズミのモチーフを多用したり、「言っている意味わかる?(Are you following me? )」というフレーズを流用したり、自分の作品の二次創作というか、何度も同じモチーフを用いることで意味を重奏させています。これもまたプラグインみたいなもので、熟れた機能をコンパクトに扱うことができる。展示や作品制作を経ると、今回でいえば〈落下〉が手元に残る。落下自体を中心軸に据えるというよりは、これも或るひとつの「根」であるように、今後インスタレーションや展示を研究していくうえで、アイテムにしていきたいと思います。

Contemporary Art Foundation