5月21日から6月27日まで、当財団事務局ギャラリーにて鈴木晴絵さんの個展「トロイの箱、パンドラの木馬」を開催しました。鈴木さんはCAF賞2024(https://gendai-art.org/caf_single/caf2024/)で最優秀賞を受賞、本展はその副賞として開催されました。
鈴木さんは反復されるイメージから、ことば以前の知覚を探っています。言葉を話すことができない兄との生活の中で得た「規律とカオス」の感覚と、版画が持つ「反復と差異」の性質を利用して制作を行い、版画やドローイング、コラージュなど多様な手法で制作しており、近年は和紙やコットン、自宅近くの植物を利用した紙漉きを取り入れて制作されています。インタビューでは、本展の作品や現在のご活動についてお話を伺いました。
--個展開催おめでとうございます!CAF賞2024で展示されていた作品から、どのような変化がありましたか。
鈴木:女子美術大学大学院に在学中は、作品で兄の障害を扱うことには怖さがあり、兄のことを作品に出したり出さなかったりしていました。そんな中、私が大学院の途中で体調を崩し、一年間休学して、自主的に家にこもるような時間を過ごしました。本を読んだり、家族と過ごしたりする中で、自分とは何なのか、自分を形成しているものは何なのかを振り返る時期になりました。そのときに生まれた作品が、CAF賞2024に出した《言葉の部屋》でした。《言葉の部屋》では、作品に兄の存在をかなり直接的に扱っていました。当時は実家で兄と暮らしており、兄の存在をかかざるを得ないという感覚がありました。ほぼ等身大で、裸に近い兄の姿を描いた作品を展示し、ステートメントの中でも「言葉を話せない兄」について明確に言及していました。
CAF賞2024展覧会風景より、撮影:木奥惠三
--今回の個展では、お兄さんのことだけでなく、お兄さんの周辺のことにもフォーカスを当てて作品制作をされている印象ですね。
鈴木:そうですね。今回の個展「トロイの箱、パンドラの木馬」では、私自身が一人で新しい家に住み始めたことで、兄との間に物理的な距離が生まれました。その一方で、これまで制作の核にあった兄という存在から離れてしまうことへの恐れもありました。だからこそ今回は、兄の筆跡という、兄から少し距離を置いたものでありながら、決して離れすぎてもいないものを手がかりにし、兄の姿を直接描かなくても存在を感じられる展覧会にしたいと考えました。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より
--鈴木さんは版画の技法を用いて作品制作をされていますが、版画と出会ったきっかけはありますか?
鈴木:私はもともと絵を描くことが好きで、美大にも油絵を描くつもりで入りました。そんな中、大学1年生のときに何気なく受講した「版と写真」という授業で版画と出会いました。その授業は写真を使って作品をつくる授業で、そのとき自分の手で描いたものではない写真が作品になるということに、強い衝撃を受けました。授業で制作する作品にはどんな写真を使っても良いとのことで、私は初めて兄の子どもの頃の写真を使いました。兄の障害を扱おうという明確な意識があったわけではなく、写真を使うと言われたときに、自然と兄の写真を選んでいました。その写真を大きく印刷し、ブループリントという技法で床面にコラージュした作品をつくりました。授業で制作した作品を先生方に面白いねと言っていただいて、私自身も版画に興味が湧き、そこから木版、銅版、リトグラフ、シルクスクリーンといった基本的な技法をしっかり学んでいきました。
版画は一度、素材について考えなければならない分野です。木版であれば木目、銅版であれば銅の扱い方など、素材と向き合う必要があります。今の私が素材に反応して作品制作していることは、素材と向き合う機会が多かったからだと思っています。技法を覚えることは私にとって戸惑いもありましたが楽しくもあり、結果として、版画は私に合っていたのだと思います。
兄にまつわる作品ををつくり始めたきっかけとしては、コロナ禍の経験が大きかったと思います。在学中に半年から一年ほど家の中にいなければならない時期があり、それが今の制作に繋がるきっかけの一つだったと思います。もちろん、子どもの頃から絵を描くことや、素材で遊ぶことが好きだったということはあります。ただ、コロナ禍は、美術家だけでなく社会全体が一度「家」というものを考える大きな機会だと思っていて、その時期が学部生の頃にあったことは私にとって大きかったです。
--「CAF賞2024」展示作品でも様々なバリエーションで作品を作られていましたが、今回の展覧会でさらに素材の幅が増えた印象です。
鈴木:以前からの制作に引き続き、言葉を話すことができない兄から得た感覚をもとに制作しています。私はその感覚を、しばしば「規律とカオス」という言葉で表し、ステートメントにも書いてきました。今回はそこからさらに発展させ、手漉き紙と版画の技法を用いて展示を構成しています。作品は、オーソドックスな版画作品そのものというよりも、版画における反復の行為や、手漉き紙をつくる際の身体感覚に、より注目したものです。言葉を話せない兄という自分の制作のルーツがあるからこそ、言葉以前、あるいは言葉がない状態において、ものがどのように見えるのかを考えながら制作しました。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より、《Handwriting》2026
鈴木:今回の展示では、兄が書いた筆跡をモチーフにした三点の作品を制作し、それらを中心に会場全体を構成しています。
壁にかかっている半立体のレリーフのような作品《Handwriting》は、兄が描いた自身の「名前」の筆跡をモチーフに制作したものです。兄はおそらく、ただ自分の名前を書いただけなのだと思いますが、その筆跡が私にとってとても面白く、モチーフとして使いたいと思いました。
素材は、和紙の原料であるコウゾを使っています。平らに漉くのではなく、少しつまみながら形にし、それを繰り返して壁に展示しています。文字を立体にすることで影ができたり、手で持つことができたりします。また、それを複製する行為によって、文字や言葉が本来持っている「意味」が外れ、模様のように見えてくることを試みています。文字を物質化することそのものが、この作品の大きな要素になっています。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より、《庭の紙 [Handwriting / Carpet]》2026
鈴木:展示会場の中心に吊るしている作品《庭の紙 [Handwriting / Carpet]》の裏には、半立体レリーフ作品《Handwriting》の筆跡の続きが描かれています。
この作品は、現在住んでいる横須賀市田浦の家の周りの植物を使って紙をつくりました。25年間、実家で兄と暮らしていたのですが、大学を卒業した後に田浦で一人暮らしを始めました。田浦はとても植物が豊かな場所で、私が住み始めた場所は生活を始める前にまず植物を刈らなければいけないような環境でした。そのときに掃除して出た植物を使用して紙を作っています。私はこのシリーズを「庭の紙」と呼んでいます。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より
鈴木:この作品の形や大きさ、表面にある銀色の箔の模様は、現在の家で使っているカーペットの模様をモチーフにしています。そして背面には、兄の筆跡の続きがペイントで描かれています。
カーペットは、掃除のためにめくるたび、裏から思いがけないゴミや、こんなところに挟まっていたのかと思うものが現れます。私の作品は映像のように動くわけではありませんが、生活の中でふと光景が切り替わるような感覚を捉えたいと考えています。カーペットの裏から兄の筆跡が現れることには、日常を過ごすなかで、目の前の出来事とは無関係に、誰かのことや自分のルーツをふと思い出す、その瞬間を重ねています。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より
鈴木:カーペットと連動して、黒い平面作品も制作しました。これはカーペットの裏側、あるいはその裏の宇宙のようなものをイメージしています。宇宙というと大きな話に聞こえますが、実際にはカーペットの裏のゴミです。
素材としては、紙漉きで残ったカスを使っています。紙を漉いた後、網にへばりついて残ったものを乾燥させたり、濡れたままパネルに置いたりして、カスやゴミの型を取るように制作しました。カーペットの作品と、この平面作品はセットのような関係にあります。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より、《Handwriting》2026
鈴木:3つ目の文字の作品は、版画で制作した《Handwriting》です。兄の筆跡の部分、手癖のようにひらがなを書いた最後に残った3本のラインを、そのまま版画にしています。コラグラフとモノタイプの技法を使い、家に置いているプレス機で刷れるサイズで構成し、全部で16枚の版を使っています。同じ版を繰り返し刷って重ねたり、カーペットの色味や模様を刷り重ねたりしているので、線だけでなく、カーペットの色や質感のようなものも含めています。
版画作品《Handwriting》の左横にはガムの包み紙と同じ素材で、星のような作品《銀星》を制作しました。兄の筆跡の版画作品《Handwriting》の横に置くことで、2つの作品を引いて見るとラインが流れ星のようにも見えます。鑑賞者の視線によって、展示空間の中に動きが生まれたらいいなと思っています。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より、《銀星》2026
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より
鈴木:入り口の壁には、実家の食器棚をイメージした引き出しのような箱をつくり、その中に大小のスプーンを入れています。これは、兄の言語感覚を説明するときによく話すエピソードから来ています。兄に「スプーンを持ってきて」と頼むとスプーンを持ってきてくれるのですが、「小さいスプーンを持ってきて」と頼むとフォークを持ってくることがあります。その謎に明確な答えはないのだと思いますが、それでもその謎を解き続けていたいという思いがあります。その感覚を象徴するものとして、展示の最初に置きました。
その隣には、アルバムから引用した三枚の写真を展示しています。中央には、兄が子どもの頃に馬に乗っている写真があります。兄は昔、障害児乗馬をしていました。馬に乗ることで身体が緩んだり、馬の温かさに触れたりする経験がありました。その写真を中央に置き、上下には実家の窓を外から撮影した写真を配置しています。さらに隣には、市販のガムを置いています。兄もよくガムを噛みますし、私自身も考えごとをするときや制作中にガムを噛むことがあります。兄と私、そして鑑賞者と身体感覚を共有するモチーフとして、ガムを置きました。
入口壁の1番右に設置したキャンバス作品は、《新しい家》というタイトルです。実家から引っ越した先の新居を描いています。新居といっても、築60年ほどの長屋住宅の内側を改築した家です。そこに住み始めた頃にコラグラフとドローイングを用いて制作しました。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より
鈴木:ガムを食べるために包み紙を開くと、その包み紙はもう何も包んでいない、用途を失った紙になります。でも銀色で美しいものでもあります。それを手癖で丸めると、硬い小さな粒になります。私の場合、兄がそれを床に捨てたりして、床に散らばっている様子を見ると、用途を失った包み紙が星屑のように見える感覚がありました。
今回、銀色は大きなモチーフの1つです。カーペットの作品の銀箔や、版画作品に散りばめた銀箔も、ガムの包み紙から来ています。ガムは市販のものなので、鑑賞者の方にも、よければ食べていただけるようにしています。食べた後の包み紙は、なるべく丸い粒の状態にして、ガム本体は入れずに、カーペットの裏に捨ててもらえるようにしました。今回の展示では鑑賞者の方々にも、味覚や触覚を通じた「感覚の共有」を試みています。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より
鈴木:今回の展示の中には、兄そのもののイメージを描いた作品が二つあります。一つは、文字の中にあるとても小さな作品です。兄の後ろ姿を描いたもので、素材にはコウゾを使っています。コウゾは、叩いて紙にする前の繊維が残った状態のものを小さく切り取り、その上に兄の後ろ姿を描きました。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より、《スパークル》2026
鈴木:もう一つは、大きな作品《スパークル》です。兄の姿を必要最低限の線と面で描いています。兄が私の新居に遊びに来たとき、森の中で立ってこちらを見ている写真があり、それをもとにしました。木々がざわざわしたり、光が反射してちらちらしたりして、眩しさで目を細めたときに、目の前の人の輪郭がぼやけるような瞬間を描いています。
最初は、今回の展示では兄の直接の姿をなるべく描かないようにしようと思っていました。けれど最後の最後に、この正面から捉えた兄の作品を描くことになりました。やはり兄のことを正面から捉えるべきだと思ったからです。この作品だけ床置きにしたのは、自分で最初に決めたルールから外れた作品だったからでもあります。
個展「トロイの箱、パンドラの木馬」会場風景より、《とろける言葉「そとにでたい」》2026
鈴木:展示で唯一電気を使っている作品は、《とろける言葉「そとにでたい」》です。日常でも使える石鹸に文字を刻印し、それを使ったり放置したりすることで、言葉の形が少しずつ溶けて読めなくなっていくシリーズです。この言葉は、言語障害のある方とのコミュニケーションに使われる単語カードから引用しています。単語カードには、「外に出たい」「お腹が空きました」「ありがとう」「ごめんなさい」「トイレに行きたいです」といった、生活に必要な言葉が記載されています。その中から「外に出たい」という言葉を選び、石鹸に刻印しました。
今回の展覧会タイトル「トロイの箱、パンドラの木馬」は、内側に何かを秘めていて、人間が触れることでそれが外に出てしまう、という「外」と「中」の要素を持つ二つの物語から引用しています。内側に何か怖いものや呪いのようなものが入っていて、人間が触れたり見過ごしたりすることで、それが外に出て、もう元には戻らない、という感覚をタイトルにしました。展示も、一度発表してしまえば、もう私だけのものではなくなります。見てくださった方や関わってくださった方の景色にもなっていく。その意味でも、このタイトルは今回の展示に合っていると感じました。
また、タイトルを考えるきっかけの一つに、いとうせいこうさんの「トロイの木馬」という楽曲もありました。決まったリズムで韻を踏みながら言葉が続いていく感覚が、今回の展示方法にもつながっています。特に小作品の配置では、ドラマチックに距離を詰めたり大きな余白をつくったりするのではなく、同じリズムで続いていく日常の中に、ただ私と兄が存在していることを展示方法でも見せたかったので、等間隔に作品を置きました。
--今後はどういったご活動をされる予定ですか。
鈴木:今後も、紙と版画を使って制作を続けていきたいです。紙はとても自由な素材で、水さえあればどこでもつくることができます。一方で、版画はルールや制約の多い技術です。その二つの感覚の違いを使いながら、制作していきたいと思っています。
作品を発表するときに兄のことを語り続けるべきなのか、言わないべきなのかということでずっと悩んでいましたが、私という人間を考えたときに兄と暮らした25年間を捨てることの方が不自然だと感じました。いつまでそれを作品にし続けるのかはわかりませんが、もういいやと思える日までは、兄のこと、あるいは兄から学んだことを作品にすることが自然なのだと思います。
鈴木 晴絵|Harue SUZUKI
1998年 神奈川県生まれ
2021年 女子美術大学 美術学科 洋画専攻 卒業
2024年 女子美術大学大学院 美術研究科 美術専攻 版画研究領域 修了
個展
2026「トロイの箱、パンドラの木馬」現代芸術振興財団(東京)
2025 「移動する庭」福沢一郎記念館(東京)、「草いきれ、紙」TENT Naruse(東京)
2024 「s t a r s」ART55プロジェクト(東京)
2023 「あなたのための森」ブックカフェ elever(神奈川)
2021 「Re:MIX 展」Gallery N.(神奈川)
近年の主なグループ展
2025 「そこにあるもの色いろ」月だいたい八日(神奈川)
2024 「6人のPrinters」弘重ギャラリー(東京) 、「紙愛づるものたち」gallery 檜 B・C(東京) 、「CAF賞2024入選作品展覧会」ヒルサイドフォーラム(東京)
2023 第48回全国大学版画展 上田市立美術館(長野)
2022 「JOSHIBISION2021」東京都美術館(東京)
2021 「1945×2021 止まった時代の主人公たち」無言館(長野)、「TOBA artproject2021 お寺覧会」三重県鳥羽市
2020 第45回全国大学版画展 町田市立国際版画美術館(東京)
2019 鳥羽うみアートプロジェクト(三重)
賞歴
2024 「CAF賞2024」最優秀賞、「ART AWARD TOKYO MARUNOUCHI 2024」ファイナリスト、「女子美術大学 卒業・修了制作展」買い上げ賞・美術館奨励賞・福沢一郎賞
2023 第48回全国大学版画展 優秀賞
2021 女子美術大学 卒業・修了展 優秀賞・買い上げ賞
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撮影:長谷なつみ