フカミエリ
Eri FUKAMI
フカミエリ
「目に見えない存在は私たちに語りかけ、それが描き出す世界は幻影となって姿を現す。 呼び覚まされた私たち一人ひとりの内なる驚異は、そこへ戻る道筋を示すだろう。」
「この世界がどのように生まれたのか」という疑問は、人類発祥以来ずっと語り続けられてきた。 たとえば世界の殆どの神話は、この世の起源、創生についてから語られ始める。 私たちは死んだ後に行くかもしれないところを朧げに知っている。 私たち皆がまるごとひとまとまりになり、「何もの」かと情報を共有していくような、人類の人生が集まる場所。 または、全ての人々が大いなる一人(一つ)による無数の転生であるという感覚。 この「感じた事があるという感覚」は、神話の中にも隠されている。 ギリシャ神話の「オルフェウスとエウリュディケ」がそうであったように、日本神話の「イザナキとイザナミ」の約束のように。「見てはいけない」と禁止されていることを破ってしまった為に悲劇的な結果が訪れてしまう物語の類似などである。国々は物理的に遠く離れているにも関わらず、類似する神の解釈や物語が存在するのはなぜだろう。 それは、私たちの根源「無意識的な記憶」から喚起される何かとして、現代人の心の深くにも通底するのではないだろうか。
私の描こうとする人間たちは、世界の断片的な記憶や時間、生き物、風や海であり、時に男性であり、女性であり、また人魚だったり鳥だったりと、それぞれが粒のように姿を変容しながら至る所に存在する。 根源的に変化し続ける生き物としての私たちは、一人一人が、生まれた時に規定された性別や人種とは異なる非典型的な存在者であり、そこから生まれ出るアイデンティティは、分かち合われることを通して、再び一つになる。 私たちは、「魂を持つ身体」なのではなく、「身体を持つ魂」とも言える。 人間の姿形を司りながらも、生命の営みが積層された石であり、土であり、骨であり、血であり、 数多の生命(宇宙)の堆積層こそが「魂」の憑代ではないだろうか。
絵を描く時は気が要る。 白くて大きな四角い平面に、シャバシャバした頼りない絵の具で描いてみる。 足し算と引き算、半々がいいような気がするけれど、頼りない存在は絵画の中では英雄だと思う。 オイルの匂いが無かったら、もっとキャンバスと私は密接な関係で繋がっていられるのに。 惜しみながら後ろに下がって絵を眺めて、なんとなく嫌だなと思うところを突いたり拭き取ったりしてみる。 絵が出来上がるのは、その日かもしれないし、1年後かもしれない。 完成と言っていいのか、いつも迷うけれど、一旦出来上がったものを別の空間で見てみたいなと思えたら終わりのような気がする。
「私」の魂は、メタモルフォーゼを繰り返しながら世界や宇宙を考えている途上にある。 人間たちがいつもの日常を過ごすことの奇跡。そして、月と太陽が当たり前にこの世界に在る事の驚異のように。 「非典型」として語られる存在と、そのアイデンティティの在処を私の目と手が探し続けること、そして全ての実現の驚異こそが、私がこの世界を知る術なのだろう。